yohzoのこんなkannji

ジジイの忘却録です 気まぐれ更新します

城址

出石城跡

出石皿そばを食べるエリアは基本出石の城下町になります ひとり旅だったら国指定史跡の有子山城跡まで行きたいのだが 嫁を1時間も歩かせる訳にはいかないのでココはグッとがまん 目の前の出石城跡だけ観る事にした 出石城は慶長9年(1604)、小出吉英により…

新城 野田城跡

永正5年(1508)菅沼新八郎定則が築城し、その後、子の定村、 孫の定満三代の居城となった城 元亀4年(1973)1月、武田信玄の最後の城攻めとなったこの地へ攻め込んだ際、 攻めあぐねた末、甲州の金堀人足を使って城の水源をたった これにより城主定満は城を明け…

安土城跡

織田信長公が天下統一を目標に天正4年(1576)1月 重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え標高199mの 安土山に築城させた平山城 岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった そのわずか3年後我が国で初めて天守閣を持つ安土城が一応の完成を見…

長浜 長浜城跡

羽柴秀吉(豊臣秀吉)が最初に築いた居城であり、 その縄張りは琵琶湖の湖水に石垣を浸し、城内の水門から 船の出入りが出来るような仕組みがあった 黒壁スクエアは何回も来ているんだけど長浜城はお初 すぐ隣りなんだけどねー 因みに年末で天守のは入れず、、…

新城 長篠城跡

長篠の戦い 鉄砲の存在が勝敗を左右したと言われる 天正3年(1575)の長篠の戦いは、織田信長、 徳川家康連合軍と武田勝頼軍の戦である 三河進出を目論んだ武田勝頼が長篠城に侵攻 落城寸前まで追い込まれながらも、長篠城主 奥平貞昌は岡崎城の家康に援軍要…

参考文献

おいらの生命線 城跡巡りの参考文献っす 1番お世話になっているのは 浜松の城跡 見どころマップ コレはホントに役に立っております あちこちで集めた小冊子が結構役に立ってます 感謝!

浜松 浜松城跡

さて、いよいよ歴史的に有名な浜松城です 家康が岡崎城から引馬城に移ってから約17年の在位期間に 歴史的に名高い戦が沢山あります 元亀元年(1570) 姉川の合戦 元亀3年(1572) 三方ヶ原の合戦 天正3年(1575) 高天神城の攻略 天正12ねん(1584) 小牧・長久手の…

浜松 引馬古城址(東照宮)

浜松城の前身である引馬城が元城東照宮付近にあったとされている 引馬城は今川氏の領地にある城で、徳川家康が岡崎城から 遠州にきた際にこの引馬城に入り浜松城を築いた 引馬は馬を引く負け戦を連想するする事から浜松城に改名した 武田信玄との三方ヶ原の…

細江 堀川城跡

今川氏の家臣、斎藤為吉が村人達と共に築いた城 桶狭間の戦いごに今川氏から独立した徳川家康は遠江に侵攻し、 刑部城を落とした翌年の永禄12年(1569)、三千の兵で攻め寄せました 一方、堀川城は農民らが立て籠もり抵抗したが落城した 気賀関所からほど近い…

細江 刑部城跡

今川義元の家臣である新田美作入道の居城 三方を都田川に囲まれた姫街道の要衝でしたが 永禄11年(1568)に近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時ら 井伊谷三人衆の案内により侵攻した徳川軍に攻められ落城した その後は菅沼氏が城主として入城している 元亀3年(1572…

浜松 中尾生城跡

戦国時代、今川氏の北遠における支城として 重視されていた城 当時の古文書(享禄、天文、永禄期-−6世紀−) にも記述が残る 山深い標高479mの山陵一帯に曲輪、土塁、空堀などの 遺構を残している 旧秋葉街道などが幾つかの古道が通じる交通や 軍事的な要地であ…

浜松 光明城跡

旧光明寺跡地に所在した城で、二俣と犬居を結ぶ旧秋葉街道沿いにある 行基が開創したとされる光明寺を、戦国時代に今川氏が築城したとされる その後、武田氏の城として重要な役割を果たすが 天正3年(1530)に徳川軍に攻め落とされた 山頂に残る石垣などの寺院…

浜松 大洞若子城跡

戦国時代に奥山氏が築いた山城です 奥山定之の三男である定吉が城主となりますが、 次男の定茂が謀反を企て定吉を城から追い出して しまったと伝えられています 1573年の武田信玄の遠州侵攻の際に、 保科筑前守宛ての書状に大洞若子城に 武田家臣が在城する…

浜松 高根城跡

遠江最北端の山城 この地の豪族奥山氏が南北朝時代、後醍醐天皇の孫 由機良親王を守るために築いたとされる 戦国時代、今川、徳川、武田の勢力争いの狭間で 内部分裂を起こすが、元亀3年の武田信玄の遠江侵攻時には 武田方の城として青崩峠越えの警備を任さ…

浜松 鶴ヶ城跡

三遠国境に作られた城であり、相川と 吉沢川に囲まれた要害の地である 『遠江国風土記伝』に、川上にあり 「城主は鶴山大磯之烝、其臣山田半之慰、 熊千代丸、時代詳ならず」と書かれているだけで、 他の文献には全く見えない山城である 標高340mの山頂には3…

浜松 犬居城跡

承久の乱後、山香庄(現在の北遠一帯)の地頭となった 鎌倉幕府御家人天野氏の戦国時代の本拠である 天野氏は戦国時代、今川氏の配下として活躍するが 桶狭間の戦の後、今川が衰退の中、徳川家康に従属し 更に武田信玄が北遠にうかがうと、武田氏に従った そ…

新城 宇利城跡

築城年代は定かでないが、源平合戦で名を馳せた 熊谷直実の後裔である熊谷氏が築いたとされる 熊谷重実が畠山義統に従って文明5年(1473)に 宇利に移住し、義統の死後に遺領を領したことで 宇利城主となったといわれる 三河の統一を目指していた松平清康(…

新城 比丘尼城跡

比丘尼(びくに)城跡は宇利城跡から1.8キロ離れた 南方に所在し、標高約220mで比高差150mほどの 山頂に位置している 築城時期や城主は不明だが北方の宇利城から近いことから 今川方の熊谷重実が築城した宇利城の支城とも考えられている 駐車場から東屋まで2…

新城 柿本城址

井伊氏の支城で、井伊谷三人衆のひとりである 鈴木重時によって築城された 重時の父、鈴木長門守重勝は井伊直親の母方の祖母にあたる 元亀3年(1572)に武田信玄の軍勢によって攻められ落城 満光寺の山門をくぐり更に進むと 柿本城15分の看板が現れるが そんな…

浜松 井平城跡

天正元年(1573)伊平直種によって築かれたと云われる 元亀3年(1572)甲斐の武田氏の侵攻によって小屋山城が落城 井平直成は討死して一時断絶となったが、天正元年(1573) 井伊直平の子直種が井平氏を継いで殿村に居館を築いた 天正18年(1590)豊臣秀吉による小…

島田市 諏訪原城跡

天正元年(1573)、武田勝頼は遠江侵攻撃の拠点とする為に 家臣の馬場美濃守信春に命じて牧之原台地に城を築いた 城内に諏訪大明神を祀った事から諏訪原城の名がついたと言われている 諏訪原城は駿河から遠江に入る要衝の地にあり 高天神城(掛川市)攻略の…

浜松 鳥羽山城跡 笹岡城跡

二俣地区にある三城の中で最も立地が良い城 三城とは二俣城、鳥羽山城、笹岡城の隣接した三城 天正3年徳川家康が武田方の二俣城を奪回する為に ココを本陣にしたという その後整備、拡張され二俣城と別郭一城の城として 機能し、二俣城と同時期に廃城となっ…

浜松 二俣城跡

元亀3年、上洛を目指して武田軍が遠江に侵攻し 二俣城を囲むが、天竜川と二俣川に囲まれた堅城のため 攻略出来なかった 武田軍は天竜川上流から筏を流し井戸櫓を破壊させ 水の手を絶つ作戦により二俣城の籠城軍を降伏させた 現在、天守台や枡形虎口、大手門…

浜松 大平城跡

南北朝時代に密教系山岳寺院を利用して築かれた 城で、井伊氏が後醍醐天皇の第八皇子宗良親王を 盟主に北朝方に対抗した際の三岳城の支城 北朝方の攻撃により、本城三岳城が落城した翌年 抵抗虚しく落城 その後戦国時代になって、徳川家康が武田信玄の 奥三…

三ヶ日 千頭峯城跡

南北朝時代に遠江南朝方の拠点のひとつとして 築かれたと伝わるが正式な時期は不明 三岳城を本城とする井伊氏の支城のひとつ 井伊氏一族の奥山朝藤が守将で西方の備えとして 機能していた 1339年(暦応2年)に北朝方の高師兼により 攻められ落城したとされる…

三ヶ日 野地城跡

野地城は徳川家康が佐久城に替わるこの地の 支配拠点として本多信俊と上村庄右衛門に命じ 築かせた城らしい 家康は天正11年(1583年)の小牧長久手の戦いの 最中に三河の岡崎にいる家臣たちの女房衆を 浜松に疎開させたが佐久城が街道から遠く手狭な ことか…

三ヶ日 佐久城跡

貞和4年(1348年)頃浜名清政が築城したらしい 浜名氏は猪鼻氏の系統で、源頼政の子孫とされる 永禄12年(1569年)徳川家康の近江侵攻に 抵抗したが落城、その後、家康の家臣である 本多信俊が在城する 小牧長久手の戦いでの近江防御の為新たに 野地城が築城…

武田神社に行ってみた

記憶を遡ると大学一年生の時に行ったかな? というくらいなのでおそらく30年以上は前の事 パープリンなおつむなおいらが覚えている訳なく 新鮮に武田神社を楽しんで来ましたよ 戦国時代の名将 武田氏3代63年に渡りこの地に 躑躅ヶ崎館として治めた場所であり…

井伊谷城跡

戦国時代に井伊谷とその周辺を治めていた国衆 井伊氏の本拠地 井伊といえば直虎が最近では名が知れてるね 標高115mの城山山頂までは整備された登り道を おおよそ20分程で登りきれる 近くに井伊氏居館跡や龍潭寺がある 城跡は公園の名前がついているがトイレが…

三岳城跡

南北朝期には井伊氏の本城として南朝方の拠点と なるが、暦応2年に北朝方の攻撃により落城した 戦国時代には井伊氏が三岳城に立て籠り 今川方に抵抗したが永正10年に落城した その後も今川氏や徳川氏によって改修され 使われているので、いい城だったんだろ…