yohzoのこんなkannji

ジジイの忘却録です 気まぐれ更新します

城址

諏訪 高島城

天正18年(1590)当時の領主 諏訪頼忠が 徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移ったあと 豊臣秀吉の家臣である 日根野織部正高吉が諏訪の領主となる 高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった 築城の名手 文禄元年(1592)から7年をかけて高島城を築城 城の際…

龍岡城跡

龍岡城五稜郭は、函館五稜郭とともに日本に 2つしかない星型稜堡を持つ洋式城郭で 江戸時代末期に田野口藩主の松平氏が 元治元年(1864)に田野口藩新陣屋として着工し 慶應3年(1867)に竣工したお城です フランスのボーヴァン将軍が考案したと言われる 稜…

高遠城址公園

コヒガンザクラで有名な高遠城址 何故に夏? って言うかもしれないが今回は蕎麦がメインで 城址はオマケっす ま、でも いつもは人だらけだったから ゆっくりまわれたので結果オーライっす

東栄町 亀ヶ城跡

永禄年間(1558〜1570)から天正年間(1573〜1593)にかけて 天正3年(1575)の長篠の戦いをはじめとする武田軍と 徳川軍が三河の地を争い戦う中で、遠江へ通ずる街道を 監視する目的で築城されたと思われる 城跡の麓にある長峰神社の永禄7年(1564)の棟札…

設楽城跡

設楽城は鎌倉時代にこの地を治めていた設楽氏により 築城され、戦国時代に設楽城の主となった伊藤氏が、 城を今のかたちに改修したと推測されています 設楽城(したらじょう)は、大干瀬川(おおちせがわ)の 流れが大きく曲がる地形を利用して築かれていま…

米子城跡

今回の旅で1番テンションが上がったのは やっぱり米子城跡だね 登り石垣、3段石垣、360度解放のツイン天守 と、話題を事欠かないお城ですね しかも、発掘調査で石垣の高さが1.5mもまだ 地中に埋まっている事がわかったみたいで 今後の展開が楽しみなので…

松江城址

さて、お次は現存する12天守のひとつ松江城です 平面規模では2番目、高さでは3番目の規模を誇ります 城郭建築最盛期である慶長期を代表する天守として 平成27年7月に国宝に指定されました 明治初頭、全国の多くの城が取り壊される中、 松江城天守は旧松江藩…

富田城跡まではちょっと、

すみれさんを出た後は再び道の駅巡り 広瀬.富田城に向かいます いやいや、なかなか面白い城跡じゃないですか 月山富田城跡 時間の都合で太鼓壇までしか登ってないけど 本丸まで行ってみたい城跡っす 2時間コースらしいから余裕のある時でないとね 千畳敷、太…

道の駅はお休みでした

佐用町過ぎてほど近い場所にある 道の駅 宿場町ひらふくは水曜定休日でした この辺りはちょっと観たい所もあるんですが、 先を急ぎましょう 因みにですが、観たいのは 道の駅の真ん前、山の頂上にある利神城跡やら 道の駅 清流茶屋かわはらから見える河原城…

中津川 苗木城跡

苗木城跡は中津川市内を左右に流れる木曽川の右岸、 一段と高くそびえる山にあります 木曽川から山頂の天守跡までは標高差約170メートル 急崚な地形を活かして築かれた山城です 苗木城の城主は遠山氏で戦国時代(1526年頃) に築城され、一度城を追われるも…

藤枝 田中城跡

田中城は同心円形の縄張りをした日本で唯一の円郭式城郭、 周囲を湿地帯に囲まれ、攻めにくく守りやすい堅城でした 徳川家康は、武田方の重要な軍事拠点であったこの地を 天正2年(1574)から7年半に渡り断続的に5回以上も 攻め続け、激しい攻防が繰り広げら…

袋井市浅名 馬伏塚城址

馬伏塚城(まむしづかじょう)は武田勝頼によって攻略された 高天神城を奪還するための重要拠点となった城だ 家康はこの城を改修して大須賀康高を城主にし、 更に横須賀城を築いて康高を城主にすると 馬伏塚城主には高力清長を任命しています 天正9年(1581…

長野県 上田城跡

上田城は天正11年(1583)、真田昌幸によって築かれた平城 上田盆地のほぼ中央に位置します 堀と土塁で囲まれ、虎口に石垣を使ったら簡素な城だが、 第一次、第二次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、 天下にその名を轟かせました。 数ある城郭の中でも、2度の…

長野県 松代城跡

松代城は元々海津城と呼ばれていた城で、 永年3年(1560)武田信玄が山本勘助に命じて築いた城です。 甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な 城のひとつとされています。 海津城は北信濃を支配する上で軍事的・政治的に重要な拠点で 武田氏滅…

長野県 飯山城跡

上杉謙信が信濃侵攻の戦略拠点として築いた城で 現在は復元された門や土塁、石垣などが残っている 階段式に郭を配した『後堅固の城』で、12年間にも及ぶ 合戦にも信玄は攻め落とせなかったという。 その後、上杉氏から武田氏へ、更に織田氏を経て 再び上杉氏…

足助城跡

足助城は標高301mの真弓山の山頂を本丸として、 四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城です 真弓山は足助の街並みを眼下に見下ろす要害の地です 足助城は鎌倉時代に足助氏が居城したという『足助七屋敷』の ひとつとも伝えられますが、この時代の遺…

出石城跡

出石皿そばを食べるエリアは基本出石の城下町になります ひとり旅だったら国指定史跡の有子山城跡まで行きたいのだが 嫁を1時間も歩かせる訳にはいかないのでココはグッとがまん 目の前の出石城跡だけ観る事にした 出石城は慶長9年(1604)、小出吉英により…

新城 野田城跡

永正5年(1508)菅沼新八郎定則が築城し、その後、子の定村、 孫の定満三代の居城となった城 元亀4年(1973)1月、武田信玄の最後の城攻めとなったこの地へ攻め込んだ際、 攻めあぐねた末、甲州の金堀人足を使って城の水源をたった これにより城主定満は城を明け…

安土城跡

織田信長公が天下統一を目標に天正4年(1576)1月 重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え標高199mの 安土山に築城させた平山城 岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった そのわずか3年後我が国で初めて天守閣を持つ安土城が一応の完成を見…

長浜 長浜城跡

羽柴秀吉(豊臣秀吉)が最初に築いた居城であり、 その縄張りは琵琶湖の湖水に石垣を浸し、城内の水門から 船の出入りが出来るような仕組みがあった 黒壁スクエアは何回も来ているんだけど長浜城はお初 すぐ隣りなんだけどねー 因みに年末で天守のは入れず、、…

新城 長篠城跡

長篠の戦い 鉄砲の存在が勝敗を左右したと言われる 天正3年(1575)の長篠の戦いは、織田信長、 徳川家康連合軍と武田勝頼軍の戦である 三河進出を目論んだ武田勝頼が長篠城に侵攻 落城寸前まで追い込まれながらも、長篠城主 奥平貞昌は岡崎城の家康に援軍要…

参考文献

おいらの生命線 城跡巡りの参考文献っす 1番お世話になっているのは 浜松の城跡 見どころマップ コレはホントに役に立っております あちこちで集めた小冊子が結構役に立ってます 感謝!

浜松 浜松城跡

さて、いよいよ歴史的に有名な浜松城です 家康が岡崎城から引馬城に移ってから約17年の在位期間に 歴史的に名高い戦が沢山あります 元亀元年(1570) 姉川の合戦 元亀3年(1572) 三方ヶ原の合戦 天正3年(1575) 高天神城の攻略 天正12ねん(1584) 小牧・長久手の…

浜松 引馬古城址(東照宮)

浜松城の前身である引馬城が元城東照宮付近にあったとされている 引馬城は今川氏の領地にある城で、徳川家康が岡崎城から 遠州にきた際にこの引馬城に入り浜松城を築いた 引馬は馬を引く負け戦を連想するする事から浜松城に改名した 武田信玄との三方ヶ原の…

細江 堀川城跡

今川氏の家臣、斎藤為吉が村人達と共に築いた城 桶狭間の戦いごに今川氏から独立した徳川家康は遠江に侵攻し、 刑部城を落とした翌年の永禄12年(1569)、三千の兵で攻め寄せました 一方、堀川城は農民らが立て籠もり抵抗したが落城した 気賀関所からほど近い…

細江 刑部城跡

今川義元の家臣である新田美作入道の居城 三方を都田川に囲まれた姫街道の要衝でしたが 永禄11年(1568)に近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時ら 井伊谷三人衆の案内により侵攻した徳川軍に攻められ落城した その後は菅沼氏が城主として入城している 元亀3年(1572…

浜松 中尾生城跡

戦国時代、今川氏の北遠における支城として 重視されていた城 当時の古文書(享禄、天文、永禄期-−6世紀−) にも記述が残る 山深い標高479mの山陵一帯に曲輪、土塁、空堀などの 遺構を残している 旧秋葉街道などが幾つかの古道が通じる交通や 軍事的な要地であ…

浜松 光明城跡

旧光明寺跡地に所在した城で、二俣と犬居を結ぶ旧秋葉街道沿いにある 行基が開創したとされる光明寺を、戦国時代に今川氏が築城したとされる その後、武田氏の城として重要な役割を果たすが 天正3年(1530)に徳川軍に攻め落とされた 山頂に残る石垣などの寺院…

浜松 大洞若子城跡

戦国時代に奥山氏が築いた山城です 奥山定之の三男である定吉が城主となりますが、 次男の定茂が謀反を企て定吉を城から追い出して しまったと伝えられています 1573年の武田信玄の遠州侵攻の際に、 保科筑前守宛ての書状に大洞若子城に 武田家臣が在城する…

浜松 高根城跡

遠江最北端の山城 この地の豪族奥山氏が南北朝時代、後醍醐天皇の孫 由機良親王を守るために築いたとされる 戦国時代、今川、徳川、武田の勢力争いの狭間で 内部分裂を起こすが、元亀3年の武田信玄の遠江侵攻時には 武田方の城として青崩峠越えの警備を任さ…